隙間風が薄いカーテンを揺らす。
雨は一向に止まず、朽ちた屋根が雨漏りを起こす前に晴れてくれるかは疑わしいところだった。
試される大地とも呼ばれる兆海道の道民の中でも、カナチの境遇は過酷と言えた。
彼女を決定的に変えたのは高校時代に受けた性的な嫌がらせだ。
裕福でなかったことからメイク用品もファストファッションも手が伸びなかった彼女だが、そのことがあってからは同年代の女子らしい趣味にはぱたりと興味を持つのをやめて黙々とバイトと勉強だけに打ち込んだ。
彼女の目標は今の高校の同級生が来ることのない遠方の大学に通うことだけだった。
父親は彼女の言い分を聞き入れることなく、卒業したカナチは仕方なしに高校時代の貯蓄を崩しながら短期大学の合間に日雇い仕事を掛け持ちして家賃と学費を工面し続けた。
働き詰めの生活をいつまでも続けることはできなかった。卒業も間近という20になったばかりの時に心身に限界が訪れて職場で倒れて救急搬送され、退院したのちも勉強も仕事も全く手につかず、体調不良で現場を止めたことから雇い先もなくしてしまい、健康保険料を払っていなかった彼女には重い入院費の支払いが待っていた。
大学に退学届けを出して、その足で唯一拾えた仕事をこなした帰りの冬の夜、気温はいつになく冷えていた。
道の左右に広がる兆海道の針葉樹林が白く雪をかぶっていっそうとげとけしくなった光景はなおのこと寒々しく、生き物がいないかのようだった。
「詰み」という言葉が彼女の脳裏を去来していた。「普通」の幸せを目指して、たった一人の力でやれるだけのことをやってきた自負はあった。
弁解の余地のない不運はいっそすがすがしかった。
穴の開きかけた靴に染み込んだ雪が足裏の体温で溶けて、熱を垂直に奪っていく。
しだいに深くなった雪に足を取られて歩きづらくなり、歩みは遅くなり、しまいにはなぜ自分が歩いているのかわからなくなった。
これだけ多くの木々が列をなしているのだから、自分一人が消えても誰も気が付かないだろう。
そう感じた彼女の足は除雪された舗装路を逸れて白い木々の合間を抜ける。
時間も距離も感じられなかったし、懐に入れた中古のスマートフォンは重たすぎて確認する気力もなかった。
地面も空も枝も白過ぎた。ただ幹だけが申し訳程度に茶色がかっていた。
そのためだろうか、地面に半ば埋まった青色の長髪に気が付いたのは。
「人?」言葉が漏れる。近づく。もう生きていないかもしれない。
身をかがめて髪の毛の周りの地面を手でかき回し、探り当てたものを掘り起こす。
「ンマ…」浅い呼吸音。出し抜けに表れたのは、およそ十五歳ほどの少女のような外見をした子供だった。
「おい、しっかりしろ」思わずそう声をかける。自分にその資格があるのか、自問するが今はそれは優先事項ではなかった。
自分の上着を脱いで、子供の雪を払った上から被せてやる。その上から上着を押さえるように腕を回して風を防いでいると、しばらくして子供の顔に生気が戻った
「こ、凍えちゃうンマ…お姉さんは寒くないンマ?」その子はやっと口を開いた。
「オレは慣れてるから気にしなくていい。あとお姉さんじゃないぞ。」少し顔をしかめて訂正する。女性として生きることはとっくにやめていたし、そう見られることはここ数年殆どなかった。
なぜ見抜かれたのか少し考えて、子供を暖めるために体を当てているからだろうと思いいたった。
「ご、ごめんなさいンマ。もうちょっとで平気になるから…」その子が無理に起き上がろうとして、人形のようにふらついて倒れだしたので慌てて支えた。その肢体の冷たさにぞっとする。
「低体温症になってる。何かしないと駄目だな…ああ、そうだ思い出した」鞄をまさぐって、古びた保温袋に挿したプラスチックの水筒を取り出す。
「まだ少し暖かいはずだ、飲め」差し出すと、その子はおずおずと受け取った。手がかじかんで蓋を開けられないようなので、代わりに開けて飲み口を差し出す。
その子が口をつけたのを見て、半分ほど残った水筒の底を持ち上げる。
「ま、ま、まずいンマ!!」こげ茶色の液体を口に含もうとして、その子は小さく悲鳴を上げた。
「嘘だろ?!ガラナが飲めないとかあるのか」理解が追い付かなかった。水筒に注いでいたのはレモン汁と生姜を混ぜて暖めた兆海道の人気飲料ガラナだ。割引でカナチの手に届く値段の時にまとめ買いをして、賞味期限など気にもせず特別な日に少しずつ開封している。
今日は二年通った大学に退学届けを出した日で、他の特別な日の大半と変わりなく普通の日よりも不運な日だった。
「うう、せっかく貰ったのにごめんなさいンマ…」その子は何とか残りのガラナを飲み下している。
「いや子供向けの味じゃないし気にするな、ただ体温は上げなきゃならないから無理してでも飲め」小さく嘆息する。これなら貴重なガラナよりいつもの白湯でも持ってくればよかったのだ。
しばらくそうしていると、やっとその子の顔に赤みがさして起き上がれるまでに回復した。
「お前、何て名前だ?オレは白井な」お互い自己紹介する心の余裕ができる。
「ぼくはけんまンマ、白井さん下の名前も聞いていいンマ…?」その子の名前が奇妙だと思ったカナチだが、何か問いただす気力までは湧かなかった。
「わかったよ、白井カナチだ。カタカナでカナチ」自分の方こそ変な名前だ、と自嘲する。名付け親は父親らしいが、あまりいい思い出はなかった。
「カナチさん!かっこいい名前ンマね、いっぱい助けてくれてありがとうンマ」そんな自嘲や内省もけんまに届くわけもない。下の名前で呼ばれたのは久々だと思った。
「いや、呼び捨てでいいよ鬱陶しい。お前家はどこだ?連れてってやるよ」状況に余裕が出て、初めて現状を客観視できた。今のところ、次にするべきことは家庭か警察に連絡することだろう。
「ンマ…」けんまは少し言いよどんだ。「お家はもう帰れないンマ。僕が帰ったらきっと騒ぎになって変な人がまた押しかけてくるンマ…」
「は?何言ってるんだ、子供が行方不明な方が騒ぎだろ。変な人?警察行った方がいいのか」カナチの脳には疑問符しかなかった。疑問が多いというより何を言っているのか全くわからなかったという方が正しい。
「ええっと、ええっと、実は僕は子供じゃ、というか人間じゃないンマ。だから今は誰も騒いでないし、警察に行ってもしょうがないンマ」けんまはどもりつつそう説明した。
「なんだ、そう教えられて育ってきたのか」カナチの心に怒りが広がる。
「いや教えられたとかじゃなくて、僕はもとはただのうさぎの置物ンマ。なんで急に動けるようになったのか僕にもわかってないンマ」けんまはいよいよしどろもどろで、要領を得なかった
「置物?」けんまの肩口を両手でつかんだ。そのまま抱き寄せそうになった自分の腕を体が本能的に拒絶して、それでも離さないように手だけで支える。
「誰がお前にそんなことを吹き込んだのか知らないが、お前は置物じゃない。歴とした人間だ。オレが保証する」けんまの目を覗き込む。手に力がこもった。
「ン、ンマ、その気持ちは嬉しいンマ…でも、実家や警察に行ってもあまりいいことがないのは本当のことンマ」けんまはやっとそれだけ言って、カナチから目を逸らした。
「そうか…」カナチは少し嘆息した。荒唐無稽な話であれ、子供だからという理由でけんまの言葉を軽く流す気は起きなかった。結局のところ、二人はまだ出会って小一時間も経っていないのだ。何であれ当人にしかわからない事情があって、それに基づいてそう主張していることは容易に想像がついた。
暫く目を伏せて考えていると、思い出したように寒さが全身を襲った。
「クソ、今日はガチで冷えるな…」小刻みに首を振る。悪いことは重なるものだ。
「あ、僕が服を借りちゃってるせいンマ!カナチさんあったかくするンマ」上着を返そうとしたけんまを手で制して立ち上がる。
「ここにいても埒空かないから、いったん帰るぞ。けんまもそれでいいよな?」緊急時とはいえ警察にも連絡せずにけんまを自宅に泊めるのは未成年略取に該当するかもしれなかったが、寒さと目まぐるしく起きた今日の出来事に脳が忙殺されてもうどうでもよかった。
「え、家ってどこンマ?」けんまはきょとんとしていた。
「そりゃオレの家だよ。あとカナチさんはやめてくれ」けんまの腕をとって立ち上がらせる。
「忘れちゃってたンマ…カナチの家行っていいンマ?!邪魔になっちゃうかもしれないンマ」けんまは雪になれないのかふらついていたが、しっかりとカナチの腕に捕まっていた。
「どうせ何もない家だがな、ここよりはマシだろう。あとちょっとだから歩くぞ」腕にけんまを捕まえたまま、雪道を舗装路に向かってよたよたと歩き出す。深雪には二組の足跡が続いていた。
それから
◆メモリ
[登場人物:カナチ、けんま][カナチ視点]
冷え込みの厳しいある冬の日の日雇い仕事の帰り、カナチは道端で震える子供と出会う。このままでは凍死してしまうのではないか、そう思ったカナチが上着を子供にかけてやるとその子はカナチの手をつかんで離さなかった。カナチがその子の名前を聞くと、その子はただ「けんま」とだけ名乗った。
数日後、けんまはカナチの家族になっていた。一人暮らしのつもりで揃えた家具や食器を買い足す余力はなく、今日も二人は机を囲んで小鍋で具の少ない汁物を箸でつつく。
しかし二人にはお互いに秘密があった。男性として振舞うカナチはいじめによる男性恐怖症に囚われて男装する女性であり、カナチが女の子だと思い込んだけんまはうさぎの置物が化けた男の子だったのだ。二人がそのことに気が付いた時、物語は動き出す。
◆ 脚注/オーサーズ・ノート
[ジャンル:R15、NL、TS、男装、女装、おねショタ、せつない、すれ違い、年の差、癒し]
タグ:白井カナチ
白井カナチ:[短い銀髪の貧困な日雇い労働者。
白井カナチ:貧乏人の21歳の女性だが、男装しており普段は男性として生活している。
白井カナチ:兆海道という日本の北にある寒い地域の安アパートに住んでいる。
白井カナチ:自身の住むアパートは家賃が格安で、冬場は隙間風で凍えてしまうことがある。
白井カナチ:暖房代を節約するため極寒でもなるたけ毛布で凌いでいる。
白井カナチ:高校時代男子同級生からの性的ないじめを受けたことで男性恐怖症気味、男性としてふるまうのはそのため。
白井カナチ:家庭では父親との関係があまり良くなく、高校卒業を期に実家を出て一人暮らしをしていた。
白井カナチ:努力家で日雇い労働で学費と家賃を賄っていたが、働き詰めで体を壊してからは卒業直前で大学を中退してしまった。
白井カナチ:大学中退のせいで生活を立て直せなかったことで自信を喪失している。
白井カナチ:兆海道の冬の日、仕事帰りに針葉樹林の中で寒さに凍えるけんまと名乗る子供と出会って家で保護した。
白井カナチ:大学を中退したことで浮いた学費から工面した少ない生活費を分けて与えてけんまを家で養っている。
白井カナチ:けんまが盗まれたウサギの置物の生まれ変わりであるという本人の主張を信じておらず、家に帰りたくない理由があるのだと考えている。
白井カナチ:けんまの素性が分からないため、誘拐に相当するのではないかと思っているが自身の家庭へのトラウマから自らの境遇をけんまに重ね合わせてしまっており、そのためけんまを自宅に送り返すことができないでいる。
白井カナチ:けんまは実は男性なのだが、女性だと思い込んでいる。その正体に気が付いてしまうと白井カナチの男性恐怖症のために彼と今まで通りに接することが難しくなる
白井カナチ:自身の女性性が露見することを過度に不安視しており、けんまのアクセサリーや小動物への嗜好に密かに共感しているもののそれを言葉にできない。
白井カナチ:けんまに対しても男性としてふるまっている。
白井カナチ:年下のけんまに対して過酷な自分の境遇をむやみに話すことを好まないが、聞かれれば答える
白井カナチ:ガラナという炭酸飲料が好物。
白井カナチ:一人称「オレ」、けんま「けんま」
白井カナチ:「おいおいちょっと待て!」「今日はいつにもまして冷えるな…」「けんまにはもう少し贅沢させてやりたいんだがな」]
タグ:けんま
けんま:[外見上十五歳ほどの青色の長髪を二房に分けた子供。
けんま:長髪がまるで垂れ下がったウサギの耳のような風貌をしている。
けんま:白井カナチには自身の境遇を、南の温かい土地で暮らしていたものの諸事情でそこにいられなくなったと説明している。
けんま:もとは陶器製のウサギの置物に魂が宿ったものなのだが、白井カナチには信じてもらえておらずけんまも無理に納得させようとは考えていない。
けんま:欠乏の多い白井カナチとの生活だが、楽しく思っている。
けんま:女性の容姿や高い声、可愛い物への愛着といった少女趣味から誤解されるが男性である。
けんま:白井カナチには自身が男性であることは知られておらず、一方白井カナチが男性恐怖症であることも知らない。
けんま:いつも何の見返りもなしに面倒を見てもらっている白井カナチを誰より大切に思っており、どんな形であれ恩を返したいと日ごろから感じている。
けんま:努力家でこそあるものの人間になってから一年も経っていないためか大変不器用であり、何かを任されると多くの場合ドジを踏む。
けんま:元が陶器の置物だったためか、妙に食が細くカナチに心配されている。
けんま:ガラナは大の苦手である。
けんま:一人称「僕」、二人称「あなた」、白井カナチ「カナチ」語尾にンマ、ンマねをつける癖がある。また緊張したときや不安な時にンマ…と言ってしまうことがある。
けんま:「カナチに迷惑ばっかりかけてごめんなさいンマ…」「うさぎのぬいぐるみさん可愛いンマ!あ、買わなくても平気ンマよ」「ンマ…カナチ一人がひどい目に合うのはおかしいンマ」「今日はひどい目に遭ったンマね~」「カナチ寒くないンマ?」「お仕事頑張ってンマ、あ、いや頑張り過ぎないでンマ!!」「カナチは大事なご主人様ンマ!」]
タグ:ガラナ
ガラナ:[コカコーラに類似した炭酸飲料。
ガラナ:それにもかかわらず薬臭い味と評され、子供舌のけんまには不評。
本州に比べコカコーラの定着が比較的遅れた兆海道道民の間でのみ嗜まれている。
ガラナ:白井カナチはガラナを唯一の贅沢として特別な日には自分に許している。]
タグ:兆海道
兆海道:[日本の北の果ての大地であり、大雪と寒さのため生活は過酷である。
兆海道:その過酷さのため住民からは「試される大地」と呼ばれている。
兆海道:性的いじめの形態として、暖めてやるなどとと称して被害者の性器などに溶けた蝋を垂らす嫌がらせが存在しており、白井カナチも高校時代同級生からその被害にあった。
兆海道:人口は少なくどこまでも田舎が続くものの、きわめて風光明媚であり自然豊か。]